01.たそがれ−01


 帰宅ラッシュから微妙にずれた時間帯の駅は、どこかよそよそしい雰囲気を漂わせていた。
 日はまだ沈まない。
 少し前の――そう、ひたむきに走っていた、走れていた頃のわたしは、この時間の駅を知らない。帰宅部の生徒はもっと早い時間、それこそ最初の帰宅ラッシュのさなかに帰途についているのだろうし、部活生はもっと遅い時間にある程度の群れをなして帰る。
 いまわたしがいるのは、ちょうどその中間。喧噪の狭間に生じたエア・ポケットのような静寂の中だ。もちろん、街に完全な沈黙も暗闇もありえない。まるで自分だけが世界から切り取られた場所を彷徨っているように感じるのは、ごく私的な心情に影響されてのものだというのも、わかっている。
 改札に定期券を通してホームに出る。等間隔でぽつぽつと置かれたカラフルな椅子は、くたびれたような汚れから相応の年期を滲ませつつも、あくまで無関心に車両のいないレールを睥睨していた。背負ったリュックもそのままに松葉杖を立てかけて腰をおろせば、背もたれとひと続きの曲面をさらす座面から、じわじわと冷気が這いのぼってくる。ぞくり、と震えた背筋に、思わず吐息がもれた。
 ――わかってはいるのだ。
 それでもひとりこうしていると、自分自身がまるで招かれざる異邦人のように感じてしまう。世界のどんな場所もわたしを歓迎しない。拒絶され、孤立しているような――いいや、そんなものはただの感傷だ。
 心なしか真昼よりも色を増したように感じる陽光を、ホームの屋根に透かし見る。
 どれほどの間そうしてぼんやりしていたのか、気づけば彼方からけたたましい音が近づいてきていた。断続的に打ち鳴らされる硬い響き。やがてその主は傾きかけた日光を遮りながら、わたしの目前に停止した。空気がもれるような音とともに扉がスライドする。
 わたしは、ぱっくりと開いた出入り口を前に途方に暮れた。
 が、それも数秒のこと。松葉杖を軋ませながらぎこちなく車両に踏み入った。


     ×     ×     ×


 新嶋の瞳が怖かった。
 有無をいわせず、いっさいの欺瞞をゆるさない。それはそういう眼だった。
 けれど、いったいどうしろというのか。
「――その脚」
 顎で左脚を示す。
「ほんっとーにただの骨折? 実はもっと深刻だったりしない? もしくは口にするのも躊躇うようなとんでもない事情だったりは?」
 矢継ぎ早な問い。
「だって、きな臭すぎなんだよ。武藤って陸上部員が脚を折った。原因は事故。本人は休部してる。ガッコ全体でその三つしか伝わってない。ここまでくると作為的なものすら感じるね」
 黙りこくったまま見つめ返すしかできないわたしへ、彼女が焦れたように言を重ねた。
「答える気がないんなら勝手に推理するよ。推理その一、ほんとはただの骨折じゃなく、もっと深刻な怪我をした。推理その二、ほんとは事故じゃなく、故意に傷つけられた」
 一気に言いつのり、新嶋は息継ぎするような沈黙を挟んだ。
 そして――そして、ため息でもつくように、口にした。
「推理その三、あんたは誰かをかばっ――」
「新嶋」
 言葉を遮ったのは反射的なものだった。反射的だったからこそ、取り返しのつかない失態を演じた。賢い友人は、その意味を即座に理解した。理解してしまった。そしてその瞬間、わたしを見つめる彼女の視線が鋭さを増した。
 それはもはや怖いなどという段階ではない。燃えそうな――火のついた眼だった。
「……困ったな」
 私は苦笑した。それしかできなかったという方が正しい。まったくもって、わたしは不甲斐ない人間だ。周囲にいいように振り回されて疲弊し、関係のない第三者に八つ当たったかと思えば、わたしのために怒りを露わにする友人を宥めてやることすらできない。
 いや、そんなことはもう――とうにわかりきっていたことだ。
「知らんぷり、しててもらうのは、無理かな」
 わたしは笑った。いや、こんなものは到底、笑顔などとは呼べないだろう。自分がどんな無惨な顔をしているのかなど、鏡をのぞかなくともわかる。けれど、いったい――他にいったい、どうしようがあるというのだろう。
「新嶋が心配してくれるのも、怒ってくれるのも嬉しい。でも――いまは、だめなんだ、そういうの」
「………………」
「そういうの、つらいんだよ」
 新嶋の顔を見られなかった。自分の顔を見せたくなかった。だからわたしは、両手で顔を覆った。


     ×     ×     ×


 定期的に訪れる振動を尻と背中に感じながら、わたしは弛緩しきって車窓を見つめていた。車内の座席は中央向きで平行に設えられており、座れば誰もが見ず知らずの他人と、やや距離を挟んで向かい合うことになる。古典的な座席配置だ。
 ホームでながめていた西日をいまは背負っている。
 緋色に染まる車内は、妙に気怠い寂寥感をもたらした。ずっとこの中にたゆたっていたいような甘怠い安らぎと、我が身を掻きむしりたくなるような狂おしさ。いましも闇に追い立てられ、圧迫されゆく太陽の断末魔。
 刹那、思わず嘲笑を含んだ呼気がもれた。案外と大きな音をたててしまい、斜向かいに座っていた中年男性が何事かと顔を上げる。なんとまあ、叙情感ロマンティシズムあふれることを考えているのだろう、わたしは。これではまるで恋に恋する感傷的な女子中学生だ。いいや、感傷的だということは間違ってはいないのか。事実、ここ数日は感情の浮き沈みが激しく、思考も上手くまとまらない。友人に八つ当たりしたあげく、救いようのない失態を演じ、ついにはどうしようもない醜態をさらした。ああ本当に、まったく、まったく、わたしという人間は――。
 中年男性の怪訝な視線をひしひしと感じながら、とまらない笑いに痙攣していたわたしがようやっと顔を上げたとき、気づかぬうちに区間の駅に停止していた電車が口を開いた。
 乗り込んできたのは――ひとりの少女。
 車内の床を踏む折れそうな脚。腰はくびれなどという表現を超越した華奢さで、それより上に視線をやるとそもそも体のおうとつ自体が少ないのだということに気づく。薄い腕と肩は箸より重いものを持つ場面を想像できないほどだ。露出したか細い首筋はほんの少しの圧力でへし折れてしまいそうな危うさを孕みつつも、その上にある小さな頭を健気に支えていた。絵に描いたような――見事なまでの文化インドア系の容姿だ。
 その少女の足許から頭頂まで、わたしの視線が一巡するのに数秒もいらなかっただろう。しかしその数秒の間に、わたしの胸を腐らせていた厭な自嘲は、どこか遠いところへ消し飛んでしまった。
 なんなのだ――この少女は。
 特に目立つというわけではない。むしろ地味な部類に入るだろうその少女は、しかし妙にわたしの心を惹きつける雰囲気を持っていた。どこがどう、と問われても返答に困る。あからさまに浮いているわけではなく、かといって埋没もせず。
 とけ込んでいる、それが最も近い表現かもしれない。
 なにをしていても違和感が生まれない。すべてを当たり前に受け入れ、受け入れられている、そんな感覚だ。わたしが上手く歩けない世界にやすやすと同化し、その一部になっている。あまりになにげなく――だからこそ、息を飲むような存在感。
 不意に少女の小さな頭がめぐり、こちらを向いた。黒いショートカットが舞う。夕日を反射するノンフレームの薄い眼鏡と、白い頬にかかった長めの前髪が少女の表情を隠したが、すっきりと整った小作りな鼻梁の下、薄く柔らかそうな唇が、なにがしかの感情を含んでかすかに震えたような気がした。
 束の間――。
 微妙に視線を外した少女は、流れるようにわたしの左隣へ腰をおろした。
 もちろんべったりと寄り添っているわけではない。しかし、ほんの拳二つ分ほどの隙間は大きく距離を置いているとはいえないだろう。如何ともいい難い中途半端な空間。そもそも、どうしてよりによってわたしの隣を選んだのか。この車両には、先程わたしを生温い視線であぶっていた中年男性の他に、同乗者などいない。
 視線を左隣に流せば、その少女は軽く俯いたまま微動だにしていなかった。襟足のあたりで潔く切りこまれた柔らかそうな黒髪が空調に揺れ、透き通るように白い華奢な首筋が露わになっている。
 ――ああ、〈となり〉の生徒か。
 この場合の〈となり〉は、いまのわたしと彼女の位置関係のことではなく、わたしの通う高校のすぐ近くに門をかまえる別の高校のことだ。わたしの通う高校は私立一貫の女子校で、大半は中等部からのエスカレーターだ。わたしの場合は陸上が目当てで高等部から入学。新嶋も声楽をしたいがために、わたしと同じ中学から受験した。ちなみに制服は渋い黒一色のセーラーだ。対して、〈となり〉は公立の共学だ。なかなかの難関らしく、同じ中学から受験した生徒が嘆いていたのを憶えている。わたしも一時期は受験を考えたが、運動部よりも文化部が盛んらしいときいて志望校を変えた。こちらの制服は紺のカラー、タイ、スカートに、白い胴のセーラー。
 ともかくわたしの横で床に視線を落としているこの小さな少女は、どうやらその〈となり〉の生徒らしい。あまりに圧倒的な存在感を漂わせていたために、本来は学生の看板ともいうべき制服に意識が向いていなかった。正直、間抜けだ。
 眼鏡のテンプルが残照を弾いて光っている。
 ――賢いんだろうな。
 彼女くらい賢かったなら、きっと簡単に答えを見つけられるだろうに。
 自分勝手な想像に小柄な少女を巻き込みながら、わたしは再び車窓をながめた。


     ×     ×     ×


「ごめん――みっともないとこ見せた」
「別に……」
 ばつ悪そうにもぞもぞと呟き返す友人へむりやり笑顔を作ってみせながら、頬を濡らす冷えた感触をてのひらで拭う。知らぬうちに背に添えられていた新嶋の手が、ひどく温かく感じた。
「――あの」
「うん」
「あたしこそ、なんか勝手に騒いで……武藤のことも考えずに。だから、ごめん」
 ものすごく言いにくそうに謝罪する新嶋の姿に、わたしは本気で吹き出してしまった。
「ちょ、あんた……! ひとが真面目に謝ってんのに」
「ごめんごめん。なんかちょっと、かわいくて」
 絶句したまま金魚のごとく口を開閉させる新嶋を尻目に、わたしは片足で上手くバランスをとって、一挙動で立ち上がる。
「でもさ、ちょっとすっきりしたよ」
「え?」
「怪我してからこっち、ずっと鬱屈してたからね。かえってよかったかもしれない」
「…………そか」
 斜め後ろの気配が笑った。わたしも笑った。
 ――まったく。
「さて。それじゃ、あたしはガッコまで戻ろうかな」
「あ、戻るの?」
「ん――帰るつもりだったんだけど、なんか猛烈に雪菜ユキナに会いたくなって」
 雪菜――豊原雪菜トヨハラ ユキナ。もはや新嶋の飼い主的な存在となった同級生のことだ。生活指導教諭の言葉を歯牙にもかけない新嶋を、唯一コントロールできる人物として一目も二目も置かれている。
「説教されるかもよ?」
「それすら気に入ってるあたしってばもう重症だよね」
 けらけらと快活に笑いながら、新嶋は手を振り駆けていった。曖昧に手を振り返す。
 まったく、まったく、まったく――。
 クレープを忘れていた。かすかに温かかったそれは、もうすでに冷たい。弾力のある皮をわたしは思いきり食いちぎった。唇の端についたクリームをなめる。
 クレープの甘やかさは、それでもこの胸の苦さを押し流してはくれなかった。
 ――名推理だ、新嶋。


     ×     ×     ×


 緊張と安らぎは、はたして同居するものだったろうか。
 少女が眠っていた。小さな頭が、わたしの左肩に触れている。
 細い少女は、見た目通り体重も軽かったらしい。無傷の右足で踏ん張れるためでもあるのだろうが、寄りかかられていても大して苦にはならなかった。おかしなことに、見ず知らずの彼女に頭を預けられているにも関わらず、嫌悪感がない。ほのかな温もりが、どこかくすぐったかった。
 むずがゆい緊張感と、騒ぎ出しそうな安心感。矛盾する感情が同じ器の中で、溶け合うか否かの絶妙な螺旋を描いている。ずっとこのままでいたいような、いますぐ逃げ出したいような。相反する衝動が引っ張り合い、わたしは身動きがとれなくなってしまった。
 ああ、もう駅に着いてしまう。
 自宅の最寄り駅が近づいていた。乗車してから三十分もかかってはいないはずだが、もう永劫とも呼べる時間をここで過ごしたような、ほんの一瞬にも満たない間だったような、不思議な心地がしていた。
「……あの、起きて」
 最寄り駅の直前、わたしは少女の薄い肩を自分のそれで揺さぶった。起きたはいいが、どこかうすぼんやりとした彼女をおいて降車する。改札の手前、わたしが乗っていた車両を振り返ると、窓からあの少女が見えた。
 眼鏡と車窓ごしに視線が合う。不意に、彼女の唇が上下した――気がした。
 なにを言ったのか、そもそも本当になにかを言っていたのか、たしかめる術も時間もあるはずはなく。少女を乗せた電車は走り去ってしまった。

 自宅の郵便受けにしばしば“文字のない手紙”が入るようになったのは、その翌晩からのことだった。


2008.10.05. 起筆  2008.10.08. 擱筆


モドル   モクジ   ススム