00.足枷 |
足枷。 風を切り、空気を貫いて駆け出そうとする脚をつなぎ止める足枷。 躍動する体躯を、鈍重に地へ縛りつける、足枷。 足枷。 焦燥と渇望が埋み火のように芯を灼く。 身悶えするほどに食い込み、窮屈になっていく。 足枷。 足枷。 × × × 「―― 頭上を飛び越えた声に振り向くと、中学時代からの級友が小走りに追って来るのが見えた。わたしは松葉杖でリノリウムの床を鈍く打ち鳴らしながら、不器用に体をひねる。やや体勢を崩しながら方向転換した頃には、彼女が目の前で荒い息を整えていた。 「……脚やられてても速いんだね、あんた」 「 「痛いとこつくなぁ――って、じゃなくて!」 やんわりと苦笑しかけた新嶋が一転して激しく頭を振るった。咄嗟にのけぞったわたしの鼻先を、明るい色に染められた髪がかすめていく。思わず均衡を失いかけたとき、新嶋が運動不足にしては目覚ましいほどの素早さでわたしのカーディガンをひっつかんだ。 「悪い。助かった」 「いーけど。ていうか本当だったんだね」 彼女の視線が右下――わたしの左脚を示している。 「まあ、ね」 わたしは曖昧に笑うしかなかった。折しも休み明け。登校したときから放課後のいままで、うんざりするほどその話題が出た。あるものは純粋に心配し、あるものは諦めを含んで同情し、あるものは陰で嘲笑したが、その奥に隠されたものは総じて吐き気を催すほどの好奇心だった。暇な同輩たちの下世話な慰みごとに徹頭徹尾つき合えるような余裕など、いまのわたしにはない。だがどうにも悪目立ちするらしいわたしは、どこへ逃げても注目を浴び、しまいには疲れ果てて諦めてしまった。 「今日なんかある?」 「ないよ。うわさ聞いたんなら、休部してんの知ってるでしょ」 「知ってるけど――」 「…………ごめん」 言葉尻に混じってしまった棘を詫びる。自分で思うよりも荒んでいたらしい。もう今日は誰とも話さない方がいいかもしれない、などとぼんやり考えていたわたしの肩に、新嶋の手がやさしく触れた。 「ちょっとつきあってくれる?」 奇妙なほどに真摯な瞳と、労るようなてのひらの温もりに、逆らうという選択肢を選べなかった。 中央公園にはいつもクレープの屋台がある。 「食ったことある?」 「ない。話には聞いてたけど」 部活帰りの空腹に耐えきれず誘惑されかかったことは何度もあった。が、結局のところ口にしたことはない。アスリートとして磨きをかけている肉体に余計なものが追加されるのを怖れたのと、それよりもさっさと帰宅してバランスのとれた食事をし、日課のランニングと筋力トレーニングをして早々にベッドへ入ってしまいたかった。 思い返して我ながら苦笑する。つくづく――わたしはつくづく、走ることしか考えていなかったのだと。 「そういえば、新嶋はよかったの?」 「なにが?」 「いや、レッスンあったんじゃ……」 「まあね」 「ちょ、なにかんが――」 「面倒そうな方から片づけようと思ってさ」 さっくりと言い放ち、新嶋はやおらわたしの背後を指さした。眼で追えば、やや古びたベンチが鎮座している。 「座っときな。怪我人を立たせっぱなしにする趣味はないんだよ」 野良犬でも追い払うように手をひらつかせ、飄々と屋台へ。わたしはしばし逡巡したが、結局ベンチの汚れを確認して腰をおろした。持ち上げた視線の先で、新嶋がクレープを注文している。 ふと思う――新嶋はなぜ歌うのだろう。 新嶋は音楽科クラスで声楽を学んでいる。頻繁に染めなおされてぱさついている髪や、やや濃いめのメイク。幾度となく生活指導を受けつつも一向に改まらないそれらからはまったく想像もつかないほど、のびやかで澄んだ声音をわたしは知っている。執拗なまでに研磨され、過剰も不足もなく純化した彼女の歌は、ある種の畏怖を含んだ感動をわたしの胸の内に呼び起こした。 それは、身震いするような――。 彼女はなぜ歌うのだろうか。ああまで美しい声色を響かせるまで、喉から血を噴くような鍛錬を積み重ね――なぜ、それに耐えていられるのだろうか。なにが彼女を支えているのだろうか。 訊いてみたい、と思う。 聞きたくない、と思う。 不意に訪れた 「武藤」 呼ばれ、知らぬうちに伏せていた眼を上げる。その瞬間、顔面から数センチのところに出現したそれに、わたしは思わずのけぞった。 「クレープ」 「あぁ、うん」 「見舞い代わりだよ」 「……ありがと」 両手でぎこちなく受け取ったそれは、焼きたての皮で包んだのかほのかに温かい。ぎっしりと詰まったクリームと、その上に格子状の模様を描くチョコレート、ふちの方に縦に切ったイチゴが配されている。包み紙ごしにも頼りないほどに柔らかく、うっかり握り潰してしまいそうな危うさがあった。顔を近づけると甘い匂いが漂ってくる。 「さて、と」 新嶋は自らもクレープ片手に私の左隣へ腰かけた。包み紙を破きはじめる。 「ちょーっと気にあることがあんだけど」 手慣れた様子でクレープの紙を裂きつつ、彼女はおもむろに口を開いた。 「先週末から今日いっぱいまであんたのうわさをざっと集めてみたんだけど」 螺旋状に破いていた紙が途中でちぎれ、新嶋がくしゃくしゃとそれを丸める。 「おかしなことに、だいたい全部おんなじだったんだよね」 リップグロスを施された唇が、ばくりと豪快にクレープを頬張った。咀嚼しながら口角についたクリームを指先ですくい取り、それもきれいになめ取る。妙に艶めかしい仕草に、わたしは思わず焦点をずらした。 「年頃のうわさ好きな連中ばっか密集してんだから、少しは話が変わって伝わんないとおかしいんだよ。しかも、いっつもぜんぜん交流ないような学科にまで、おんなじ時期におんなじくらい詳しい話が伝わってるって、いったいどーいうこと? いくらなんでも不自然すぎでしょ」 一片のよどみもなく滔々と語りながら、いっそ気持ちいいくらいの早さでクレープを減らしていく。 「武藤、あんたの脚さ」 最後のひとかけらを放り込んで、新嶋がわたしを流し見た。 「――ほんとに事故っただけなの?」 わたしの手の中で、クレープの紙がくしゃりと音をたてた。
2006.02.16. 執筆 2008.10.04. 加筆修正
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