True Blue.


「っああああぁぁぁあああああ――っ!」

 突如として叫びだした彼女に、私はぎょっとして文庫本から顔を上げた。いまだ冷気を孕んだ風が吹く空に、彼女の絶叫がこだまする。
 彼女はこちらに背を向けて仁王立ちしたまま、しばしの間、沈黙していた。空を見上げながら。
 やがて――。
「……はぁ」
 気が抜けたようなため息をもらす彼女を前にして、私はただひたすら呆然と、彼女の後ろ姿を見ていた。口をポカンと開けた私は、客観的に見てかなり滑稽だったに違いない。
 卒業式と学年末テストが終わって、まだほんの数日しか経っていない放課後。私と彼女は、普段は鍵がかかっている屋上の扉をぶっ壊し――もとい、少々強引に開けて、そこで他愛ない時間を過ごしていた。私はいつも通り文庫本を開き、彼女はなにをするでもなく、落下防止用のフェンスに指を絡ませて、ただぼんやりと。互いに会話のない時間を心地よく思える程度には、私たちは仲の良い友人だった。
 不意に、彼女が振り返る。
「……どしたの?」
 怪訝そうな顔で言われる。“それはこっちの台詞だ”という言葉を、私はむりやり飲み込んだ。彼女がしばしば妙なことをするのは、なにもこれが初めてではない。
「……気でも狂ったのかと思ったわ」
 代わりに口にした台詞に、彼女はメイクを施した唇を、きゅっとつり上げた。
「――雪菜はさぁ」
「ん?」
「叫び出したくなることってない?」
 その言葉に、私はあぁ――と思った。なにが“あぁ”なのかというと、彼女が突飛な行動にでた理由が、思い当たったからだった。
「浅野先輩のこと?」
 だから私は、質問に答える代わりに、思い当たった理由を口にした。一瞬、かすかに渋い顔をした彼女に、私は確信する。
「香苗、好きだったものね。浅野先輩のこと」
「その言い方やめてよ、心臓に悪いから……」
 確かになんの工夫もなく“好きだったものね”は些かなりともどきっとする。だがこの場合、事実なので他に言いようがない。
「叫ぼうが喚こうがあんたの勝手だけど、喉を傷めないようにしなさいね。このあと個人レッスンでしょう?」
「うん」
 私たちは、私立一貫の女子校で音楽部に在籍している。彼女――香苗は声楽科、私はピアノ科。話に出てきた浅野先輩は、先日卒業された声楽科の先輩で、香苗が目標としていた人だった。もっとも、浅野先輩は色々なコンクールで最優秀賞を総なめにしていた実力者だから、声楽科の生徒のほとんど、先輩を目標にしていただろうけど。けれどその中でも、浅野先輩は特に香苗を可愛がっていたのだ。
 その先輩は、卒業式の翌日にオーストリアへと旅立ってしまった。ピアノ科の先輩である、司堂先輩と一緒に。
 二人が“親友同士”であることは、音楽部でも有名なことだった。声楽科の生徒は実力テストの際、ピアノ科の生徒に伴奏を頼まなければならないのだが、浅野先輩の伴奏は、いつも決まって司堂先輩がしていたという。細かい分野は違えど、実力が拮抗する者同士でパートナーを組んだと言われればそれまでだが、私の見た限り二人の間には“親友”という関係だけでは片づけられないような、確かな繋がりがあったと思う。
 そのためか、二人がオーストリアの同じ音大に留学することを聞かされたときに、私の脳裏に“カケオチ”という使い古された単語が浮かんだことは、恥ずかしいから誰にも秘密である。
「どーしてるのかなぁ……、浅野先輩」
「そんなに気になるなら連絡してみたら? 知っているんでしょう?」
「連絡先? 知ってるけどさぁ……」
 ぶつぶつと、なにごとか呟いている。耳を澄ましていると、“だってまだ”とか“お邪魔かもだし”などと聞こえてきた。――“お邪魔かもだし”って……。
「面倒くさいわね」
「ひどっ!」
「だっていったいなんなのよ。あんたはなにをしたいわけ?」
「……うーん」
 香苗は茶色く染められた髪に、ざっと指を通した。何度も染め変えられて、ぱさぱさになってしまった長い髪が、風になびく。
「……できるなら、会いたい。でも無理だから、せめて話したい」
「だったら四の五のぬかしてないで、とっとと連絡しなさい。だいたい、らしくないわよ? いつも強引にガーッと突き進むあんたが、なにを迷っているの」
 そう。いつもなら香苗は、なにがあっても私の手を引っ張りながらその渦中へと特攻していく、暴走機関車だった。その場合いまの役割は逆で、私が悩んでいるのを香苗が笑い飛ばすはずなのだが。
「……らしくない、か」
 香苗の苦笑に、かすかな自嘲が含まれているのを感じ取って、私は内心で意外に思った。それなりに長い付き合いであるはずなのに、いまだかつて、彼女のそのような面を見たことがなかったからだ。それに、こう言ってはなんだが、ばっちりメイクに茶色く染めた髪という、うちの学校では明らかに“魔女”と見なされて生活指導を受けるような外見をした彼女に、自嘲の笑みはあまりにもそぐわない気がした。あくまで私の主観だが。
「ね、雪菜」
「……なに?」
 香苗は一瞬だけためらったあと、呟くような声で私に訊ねた。
「浅野先輩もそうだけどさ、なんであたしと一緒にいてくれんの?」
「――は?」
 質問の意図がわからず、私は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「だってさ、浅野先輩もあんたもすごく優等生じゃん。あたしなんかこんなんだしさ、歌以外に取り得なんかないし、ベンキョーはできないし、ケーゴはつかえないし、役に立つことなんてありゃしないし。おまけに――」
「ちょ、ちょっと。待……っ。ストップ!」
 唐突に自分の欠点と思しきところを列挙しはじめた香苗を、私は些か慌て気味に止めた。
「なに言い出すのよ、いきなり……」
「だってなんか。あたしにつき合っててもいいことないのに、なんでだろって」
「ばっかねぇ……」
 私は深いため息をついた。それがどういった種類のため息だったのかは、私自身にもよくわからない。強いて言えば、安堵と呆れが混じったものだったろうか。
「あのねぇ。私や浅野先輩が、損得だけで友達やるような人間に見えるわけ?」
「……じゃないけどさ」
「だったらそれでいいんじゃないの。少なくとも私は、あんたになにかを要求するつもりなんかないし。あんたがあんたであればそれでいいの」
「……いいの?」
「いいの」
 私の出した答えに、彼女はにへら、と笑った。不意に私に背を向け、空を仰ぎ見る。
 そして――。

「あああぁぁあああぁぁあ――っ!」

 叫んだ。思いっきり。
「今度はなんなわけ?」
「んー? 嬉しくって」
「変なやつめ」
 私は腕時計に視線を落とし、開きっぱなしだった手許の文庫本をぴしゃっと閉じた。
「そろそろじゃない?」
「あ、マジだ」
 立ち上がってスカートの尻を払う私を、香苗がドアノブの取れた扉を開けて待っていてくれた。
「それはそうと……」
 私は香苗の頬をつまんだ。
「浅野先輩にはちゃんと連絡しなさいよ?」
「えぇー。マジで?」
「気になるんでしょ? それに、あんたを甘やかすのはもともと私の役目じゃないんだから」
 言いながら香苗の背を押す。

 ――そう、これでいい。あんたは気づかなくていい。
 あんたが潰れたとき、受けとめられる位置に私がいられればそれでいい。
 それ以上は必要ない。いつか終わってしまう関係になど、興味はない。
 私はあんたのとなりでピアノが弾ければなにもいらない。

 扉をくぐる直前、私は空を見上げた。
 今日も空は変わらず蒼い。
「神は天におわし、世はなべてこともなし――か」
 誰のものかは忘れたが、以前どこかで知った言葉を呟いて、私は先を行く親友の背中を追った。

「所詮は道化よ――笑ってるがいいわ」





2006.03.28 執筆  2008.07.10 加筆修正



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