視線


 また、眼が合った。
 私は教室の窓際に頬杖をつき、中庭を見下ろしていた。開け放った窓からは春の涼やかなそよ風が吹き込み、柔らかな陽光が私を包んでいた。
 昼休み。弁当を食べ終えてしまったら、中庭をぼんやりと眺めるしかやることのない私である。必要以上に広い中庭は、雨でも降らないかぎり大勢の生徒が弁当を持って訪れる場所。その生徒達を教室の窓から遠巻きに観察するのが、いまのところ私の日課だった。

 ――いつの頃からだったろう。“そのひと”と眼が合うようになったのは。
 その時は、ただの偶然だと思っていた。あれだけの生徒がいるのだから、一人くらい、私と眼が合ったとしても別段おかしなことではない。だいたい、私は“そのひと”のことなど微塵も知らなかったし、昼休みが終わる頃にはとっくに忘れていた。
 私が“そのひと”をたしかに認識したのは、それから毎日のように眼が合うようになってからだ。次の日も、また次の日も眼が合って、ようやく妙だと思い始めた。大勢の中から“そのひと”だけを眼が無意識に捜すようになった。
 柔らかそうな黒髪。
 時折こちらを見上げる、ひどく純粋で意志の強そうな視線。
 きっとどれだけの人混みに紛れていようと、いまなら確実に捜し出せる。
 初めはどうしていつも眼が合ってしまうのかわからなかった。眼を逸らしながらも、いつのまにか重なってしまう視線に戸惑いを感じた。
 そしてそのうち、私は気が付いた。
 私だけが“そのひと”を見ているのではない。
 “そのひと”も、私を見ているのだ――と。
 考えてみれば当たり前のことだった。どちらかが一方的に見つめていたのでは、眼が合うことなどあり得ない。
 私たちは、互いを見つめ合っていたのだ。

 また“そのひと”がこちらを見ている。
 私が別の所を見ていても――視線が合っていなくても、すぐにわかる。
 感じ慣れた視線。
 当初の疑問など、すでにどうでも良くなっていた。私にとってはこれが日常で、いまではもう、当たり前のことになっていたからだ。
 一日一回、“そのひと”と視線を合わさない日は、胸の奥のどこかわからない場所で、なにかが燃え切らずにくすぶっている気さえする。
 名前も知らない。素性もわからない。ただ教室の窓と中庭から、たまにそっと視線を絡ませてすぐに逸らす、ただそれだけ。

 だが――。

 視線を合わせた私たちはその日、互いの口許に、共犯者のような笑みを浮かべた。



2006.02.16 執筆  2008.07.10 加筆修正



モドル